仲間は 「責任 」の向こう側にしかいないから 、責任はお互いに避けてはならない。
私にはプライベートで多くの仲間がいる。血が繋がった家族と同じぐらい信頼している人もいる。
基本的には仲間が困ってる時は助けたい、「仲間だから」という理由だけで無条件に助けたい。困っている仲間がいたら私にできることで最低限のサポートはする、見返りは必要としない。
しかし自分で努力をしなかったり、やるべきことを出来ていなかったりする人のSOSに関しては、はっきりと無視する。
例え知り合いでも、切るときはあっさりと切る。「何とかして欲しい」と泣きつくだけの人を見てると本当に「面倒くさい人だな」と思う。都合が良いときは寄ってきて、都合が悪くなると途端にすがる人、そして自分には出来ないと決めつけて、何の工夫も努力しない人との関係は全く築かない。容赦なく、あっさりと切る。
能力云々の話ではない。持っている力で最大限の努力をする人、さらなる高みが目指せる人、自らの意見も差し出せる人、そういう「かっこいい人」が私は好きだ。
人が人のために尽くしてみることで知見が広がることもある。経験値が上がることもある。しかしそれが義務になった途端、「自己犠牲」とか「共倒れ」が、美しいものに変わる。そして美談が生まれる。
相手に尽くすことは人付き合いの面で大切だと思っているが、なれ合いとは、また違う。なれ合うために与えるのではなく、目標を掲げた者同士が目標を達成するために、価値ある情報を与え合うこと。
与え合うが肝心だ。
少しドライな関係くらいがちょうどいい。誰かに寄りかかるのではなく自分の足できちんと立つこと。そして自分の足で立っている者同士が、目標のために繋がれれば最高だと思う。
困ったときは周りに相談し助けを求めることは決して恥ずかしいことではない。しかし寄りかかってばかりの人を見ていると、自分が一方的に受け取ろうとして自分からは何も相手に与えようとしない人が目立つ。その他力本願な姿勢を見ると「セコイな」と思う。
その場だけ一時的に誰かに助けてもらっても解決にはならない。自分でそれらの問いの解答を見つけないと意味がない。
仲間の助けが自立の邪魔になることだってある。突き放すのは、優しさでもあるだろう。
最後まで面倒を見きれないのなら
中途半端に手を差し伸べないことが『愛』
そして、あえて厳しく接したりすることも仲間の大事な役目。
大人になると人は人から黙って去って行く。嫌いとか言い合うこともなく、黙って消えて行く。
それでも叱ってくれる人がいるのは、あるいはちゃんと自分を否定してもらいたいと思える相手がいることはとても贅沢なことだろう。
欲しい言葉よりも必要な言葉を贈ってくれる仲間がいる。
たまに自分でも言葉で表現できなかった「自分の気持ち」を、いとも容易く言葉で代弁して、心のど真ん中にある核心を突いてくれる仲間がいる。
私は、そういう仲間に散々助けられまくってきた。シェアすべきは、苦しみではなく、喜びや感動、自己の成長であるべきだろう。
誰が果たして友達なのかは、離れてみて、初めて分かることが多かった。
仲間は 「責任 」の向こう側にしかいないから 、責任はお互いに避けてはならない。
やるといったら 最後までやりきるしかない 。任せるといったら 最後まで任せるしかない 。そう思って 、がしっと責任を受け止めてみたら、ひとりぼっちの私にも素晴らしい仲間が見つかった。
自分のやりたいことのために生きる。何がしたいか、どこに行きたいか、何が好きなのか。それを実行するために必要な実践を「大胆に繰り返していく」ことで、出来なかったことが出来るようになる。
何から始めていいかわからなければ、全て始めるべきなのだ。
前例がないのなら自分が前例になればいいだけ。
シンプルなこと。私はそう思う。
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